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歯止めとクレームの設計論 ─声が社会を止めるとき
卒業式の日に用意された赤飯が、誰にも届かないまま廃棄されたというニュースが有りました。卒業式が東日本大震災の日にかさなり、その日にお祝いの食事を出してよいのか、という一本の電話がきっかけだったといいます。しかも、その電話は強い抗議ではなく、問いかけに近いものであったとされています。それにもかかわらず、学校は提供を中止し、用意された二千食を超える赤飯は廃棄されたそうです。結果として、祝うはずだった場は祝われることなく終わり、食事は誰にも届かないまま失われました。この判断は、誰かを傷つけないための配慮として説明されます。
確かに、その場にいない誰かの感情にまで思いを巡らせる姿勢は、現代社会において重要な価値でもあります。しかし同時に、別の違和感も残ります。それは、誰かを傷つけないための判断が、別の誰かに届くはずだった機会そのものを消してしまったという事実です。祝われるはずだった卒業生、準備に関わった人々、食事を通じて共有されるはずだった時間。そのすべてが、一つの問いかけによって消失しています。この違和感は、単なる一事例にとどまりません。
学校における性教育もまた、別のかたちでとどまり続けています。
「歯止め規定」とは、1998年改定の学習指導要領で導入された、小学校理科(小5「人の受精」)や中学校保健体育(中1「妊娠の経過」)において、具体的な性交や生殖の過程を原則として教えない(取り扱わない)よう定めた制限事項です。当時、援助交際などの社会問題化を受け、性教育の行き過ぎを抑える目的で設けられました。この段階でのこの方法自体も適切とは言えませんが、日本弁護士連合会も「学習指導要領の改訂に当たり「歯止め規定」の撤廃と包括的性教育の導入を求める会長声明」を発表しました。歯止め規定とは、「妊娠の経過は取り扱わない」という記述で、性交は性教育の中で教えることができない、と解釈されています。
「人間の性交について科学的に学習する機会を奪う「歯止め規定」が、子どもたちの適切な学習と健全な発達の妨げとなっている」「あまりに硬直的で消極的であり、不適切であると言わざるを得ない」「月経がある人と射精ができる人が性交したら妊娠する可能性がある。それを教えずに、どうやって予期せぬ妊娠を防ぐのでしょう」などの意見がある。当然の指摘であり、目に見えぬなにかを止めようとしているのです。
性教育で何が適切で、どこまで踏み込んでよいのか。その境界は明確に定義されているわけではありません。「発達段階に応じて」「適切に配慮して」といった表現が繰り返されますが、それらは具体的な判断基準というよりも、慎重さを要請する枠組みとして機能しています。その結果、避妊や性交、同意といった重要なテーマは扱いにくくなり、教育内容は抽象的な説明にとどまりがちです。現場の教員は、何を教えるべきかを判断するというよりも、何を教えないかを常に意識させられています。踏み込むこと自体がリスクとなってしまっている社会構造です。結果として教育は後退していきます。
この二つは、一見すると異なる問題に見えます。一方は給食の提供をめぐる単発の判断であり、もう一方は教育内容をめぐる持続的な抑制です。時間的スケールも、関係する制度も異なります。しかし、そこに共通している構造は単純です。いずれも、「声」が社会の行為を止めています。赤飯の事例では、一つの問いかけが全体の中止に転化しました。性教育の現場では、曖昧な懸念が継続的な抑制として働いています。
私たちは「クレーム」と呼ばれるものを、どのように扱っているのでしょうか。本来、クレームには明確な違いがあります。
実害が発生しているもの、将来のリスクを指摘するもの、違和感を表明するもの、制度の手続きに対する不満、さらには単なる誤解や個人的な感情にすぎないものもあります。
次のように整理してみました。被害申告、リスク指摘、倫理的違和感、規範違反の指摘、不公平への指摘、手続きへの不満、誤解や情報不足、そしてノイズ的な過剰反応です。
これらは、それぞれ発生する文脈も、含んでいる情報の質も、社会に与える影響も異なります。にもかかわらず、現実の意思決定では、それらが「クレーム」という一括りに扱われてしまいます。するとその瞬間、すべてのクレームは同じ意味の重さを持つものとして処理されます。実害を伴う重大な訴えと、個人的な違和感の表明とが、区別されないまま同一の入力として制度で処理されるのです。
一方で、クレームを受け止める側、すなわち歯止めにも、本来は複数の構造が必要なはずです。上限を設けるもの、条件によって発動するもの、手続きを要求するもの、第三者が介入するもの、時間で区切るもの、可視化によって抑制するもの、責任を明確にするもの、そしてフィードバックとして修正に回すもの等があるはずです。
歯止めとは、本来これらが組み合わさった多層的な制御装置です。止めるためだけの仕組みではなく、進め方を調整するための仕組みです。速度を落とす、方向を変える、一部を修正する、あるいは条件付きで継続する。そのような複数の出力を持つのが、本来の歯止めです。しかし実際には、この両者のあいだでズレが生じています。赤飯の事例では、倫理的違和感という比較的弱い入力が、最も強い出力である「全停止」に変換されました。一つの問いかけが、二千食の廃棄という結果にまで増幅されています。性教育においても同様です。リスク指摘や価値的懸念が、教育内容全体の抑制という形で出力されています。本来であれば調整や部分修正にとどまるべき入力が、長期的な停滞へと変換されているのです。つまり、入力の強さと出力の強さが対応していません。弱い入力が、最大の出力を引き起こしています。
これは個別の判断ではなく、社会の意思決定の構造そのものです。見えてくるのは、個別の判断の誤りではありません。設計の問題です。すなわち、クレームの種類を区別しないまま同じ重さで入力し、歯止めの構造を区別しないまま停止として出力してしまう設計です。本来、クレームは社会にとって重要なセンサーです。社会のどこに歪みが生じているのか、どのような違和感が存在しているのかを知らせる信号です。問題は、その信号をどのように変換するかにあります。もしクレームが分類され、その重大性や再現性に応じて重み付けされ、歯止めがそれに応じて減速・修正・継続・停止を分岐させるのであれば、社会は止まることなく調整されます。小さな違和感は小さな修正にとどまり、大きな問題は適切に止められます。しかし、入力が均質化され、出力が単一化されるとき、最も弱い声が最も強い決定を引き起こします。一つの声が全体を止める構造が生まれます。それは慎重さではありません。設計の誤りによる停止です。
クレームにどう対応するかではありません。どのような設計が、クレームを停止ではなく調整へと変換するのかです。包摂とは、声を消さないことです。しかし同時に、それは声によって社会が止まらない構造を持つことでもあります。声を受け止めながら、社会を動かし続けること。その両立を可能にするのが、歯止めの設計です。歯止めとは、個々の声を守りながら社会を止めないための設計ではないでしょうか。(図1,図2,図3)
【デザイン・リーガル・ディクショナリー】
カスタマーハラスメント対策:
顧客や取引先などによる暴言、脅迫、不当な要求、長時間の拘束など、社会通念上相当な範囲を超える迷惑行為から労働者を保護するための取組を指す。近年、カスタマーハラスメント(カスハラ)が労働者の心身の健康や職場環境に深刻な影響を及ぼすことが問題となり、企業には相談体制の整備、対応マニュアルの作成、従業員教育、組織的な対応方針の策定などが求められている。2025年には労働施策総合推進法が改正され、事業主にカスタマーハラスメント防止措置を講じることが義務付けられた。
(参考:厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」、https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000915233.pdf )
公益通報者保護法:
労働者や退職者、役員などが勤務先の法令違反行為を公益のために通報した場合に、解雇や降格などの不利益な取扱いから保護することを目的として、2004年に制定された法律である。企業や行政機関における不正の早期発見・是正を促し、国民生活の安全や社会的利益を守る役割を担っている。2022年には事業者の内部通報体制整備義務が強化され、さらに2025年改正法では、フリーランスの保護対象への追加、通報者探索の禁止、通報を理由とする解雇・懲戒への罰則導入など、通報者保護が一層強化された。
(参考:消費者庁「公益通報者保護法と制度の概要」、https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_partnerships/whisleblower_protection_system/overview )
(参考:政府広報オンライン「公益通報者保護法が改正。『内部通報制度』で不正をストップ!」、https://www.gov-online.go.jp/article/202402/entry-5717.html )
パブリックコメント:
行政機関が法令や制度、計画などを制定・改正する際に、その案を公表し、広く国民から意見や情報を募集する制度である。正式には「意見公募手続」と呼ばれ、行政手続法に基づいて実施される。国民が政策形成過程に参加する機会を確保し、行政運営の透明性や公正性を高めることを目的としている。提出された意見に対しては、行政機関が考え方や対応方針を公表することが求められている。
(参考:総務省「意見公募手続(いわゆるパブコメ(パブリック・コメント))の概要)」、https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/gyoukan/kanri/tetsuzukihou/iken_koubo.html )
製造物責任法とリコール制度:
製造物責任法(PL法)は、製品の欠陥によって消費者の生命、身体または財産に損害が生じた場合、被害者が製造業者等の過失を立証しなくても損害賠償を請求できるようにした法律であり、1995年に施行された。一方、リコール制度は、製品に安全上の欠陥が判明した際に、事業者が自主的または法令に基づいて回収・修理・交換などを行い、事故の発生や拡大を防止する仕組みである。両者は消費者の安全確保を目的とするが、PL法が損害発生後の責任を定めるのに対し、リコール制度は事故の未然防止を重視する点に特徴がある。
(参考:e-Gov法令検索「製造物責任法」、https://laws.e-gov.go.jp/law/406AC0000000085 )
(参考:内閣府「『リコール』ってご存知ですか?」、https://www.cao.go.jp/consumer/iinkai/2013/120/doc/120_130514_shiryou5-4_.pdf)
ADR:
ADR(Alternative Dispute Resolution:裁判外紛争解決手続)とは、裁判によらずに、当事者同士の話し合いや第三者の仲介・あっせん・調停などによって紛争の解決を図る制度である。消費者トラブル、労働問題、医療紛争、近隣紛争など幅広い分野で利用されており、裁判に比べて手続が簡便で、費用や時間の負担が少ないという利点がある。日本では2007年に裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律(ADR法)が施行され、一定の基準を満たした民間機関を国が認証する制度が整備されている。
(参考:法務省「かいけつサポート」、https://www.adr.go.jp )
(参考:国民生活センター「ADR(裁判外紛争解決手続)」、https://www.kokusen.go.jp/adr/ )
同調圧力:
集団の中で多数派の意見や行動、価値観に合わせるよう個人に働く心理的・社会的な圧力を指す。明示的な強制ではなくても、「周囲と違う行動をとりにくい」「空気を読まなければならない」と感じさせることで、人々の判断や行動に影響を与える。日本社会では、協調性や集団の和を重視する文化と関連して論じられることが多い。一方で、集団の秩序維持や協力を促す側面がある反面、多様な意見の表明を妨げたり、少数者への排除や差別を生んだりする要因にもなり得る。
(参考:コトバンク「同調圧力」、https://kotobank.jp/word/同調圧力-1711423)
出る杭は打たれる:
周囲より目立ったり、独創的な意見や行動を示したりする人が、嫉妬や反発、批判の対象になりやすいことを表す日本のことわざ。集団の調和や均質性を重視する社会において、周囲と異なる振る舞いを抑制する心理や社会的圧力を象徴する表現として用いられる。一方で、現代社会では創造性や多様性の重要性が高まっており、「出る杭を伸ばす」ことの必要性も強調されるようになっている。しばしば同調圧力や集団主義を考える際の代表的な概念として取り上げられる。
(参考:コトバンク「出る杭は打たれる」、https://kotobank.jp/word/出る杭は打たれる-577183 )
キャンセルカルチャー:
キャンセルカルチャー(Cancel Culture)とは、著名人や企業、団体などが差別的発言や不適切な行為を行ったとみなされた際に、SNSなどを通じて批判や不買運動、出演停止要求などを行い、社会的な責任を追及する現象を指す。もともとは人種差別や性差別などへの抗議運動と結び付いて発展したが、近年では過去の発言や行動に対する過度な糾弾や言論の萎縮を招くとして批判されることもある。社会的公正の実現と表現の自由との関係をめぐって、現代社会で議論の対象となっている。
(参考:コトバンク「キャンセル・カルチャー」、https://kotobank.jp/word/きやんせるかるちやー-314909 )
お客様は神様です:
本来、歌手の 三波春夫 が「舞台に立つとき、観客を神前に向かうような尊い存在として敬い、芸を尽くす」という意味で語った言葉である。しかし現在では、サービス業において「顧客は絶対的に優先される存在である」という意味で広く用いられることが多い。近年は、この言葉が過剰な顧客要求やカスタマーハラスメント(カスハラ)を正当化するものではないことが再認識されており、顧客と事業者・従業員が互いに尊重し合う関係の重要性が指摘されている。
(参考:三波春夫オフィシャルサイト「『お客様は神様です』について」、https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html )