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鞭と意味経済

2026.5.28

競馬は、世界でも最も古くから行われてきたスポーツのひとつです。競馬は紀元前の古代ギリシャやローマ帝国、さらには中央アジアの騎馬文化にもその起源があり、人類最古のスポーツの一つともいわれています。中世ヨーロッパでは王侯貴族の社交の場としても発展し、近代に入るとイギリスを中心に制度化・ギャンブル化が進みました。日本でも明治期に導入され、戦後には国営競馬から公営競馬へと変わりました。競馬とは単なる娯楽ではなく、国家や地域が制度を整備し、「公正な競争」を保障することで社会的信頼を獲得し、また国や権力側の一定の財源にもなっています。


日本で近代競馬が始まったのは1862年、横浜居留地で行われた外国人主催のレースが起源のようです。明治政府は制度化を進め、1906年には「旧競馬法」が制定され、JRA(日本中央競馬会)は戦後の昭和23年競馬法(法律第158号)により競馬を行う団体として、農林水産大臣の監督を受け、日本国政府が資本金の全額を出資する特殊法人として発足しました。それ以降、公営競技としての中央競馬を担い、公益性と娯楽性を両立させるための仕組みを整備してきた。地方自治体が主催する地方競馬(NAR)とともに、競馬は公営競技(中央競馬、地方競馬(農水省)、競艇(国交省)、競輪、オートレース(経産省))として社会的に容認されています。ちなみに、サッカーくじ(TOTO)は文科省、宝くじは総務省管轄です。

さて、そんな競馬で先日(2025年4月)鞭の使用についての制裁で過怠金を受けたニュースが報道されました。
日本の中央競馬における鞭の使用ルールを説明します。


2023年以前は1回のレースで鞭の使用は10回まででしたが、2024年以降は半分の5回になりました。鞭を多用すると競走馬が傷ついてしまうこと、そして動物愛護観点から使用制限が設けられています。回数制限以外にも以下があります。


競走馬がケガするほど鞭を使用
肩よりも高い位置から鞭を振り下ろす
反応のない馬に対して過度に鞭を使う
”勝敗が決まった場面”や、”ゴール後の鞭の使用”
わき腹や頭部へ鞭を使う短期間の鞭連打


このように、過剰と言える使い方を行うと制裁対象となります。罰則内容は過怠金の支払いですが、7回違反すると1日の騎乗停止、8回以降は1回違反するたびに2日の騎乗停止となります。


また鞭は素材にも規定があり、衝撃吸収素材を用いたパッドを装着したものしか使用できません。以前まではシロナガスクジラの髭を使用していました。現在は捕鯨禁止の条約があり、グラスファイバーを用いて作られています、そのうえから緩衝パッドをつけているそうです。

競馬の本質は、スピード、精密な操作、そして戦略の融合といえます。何世紀にもわたり、サラブレッドの持つ圧倒的な身体能力と、それを操る騎手の卓越した技術が一体となることで、観衆を魅了し、人馬一体という言葉もあります。その中で、鞭は重要な道具として長らく用いられてきた。加速を促し、進路を修正し、ゴール前で最後の力を引き出す──こうした場面で鞭は不可欠とされてきていました。

競馬という制度がいかに「速度」だけではもはや正当化され得ない状況にあるのだと思います。「倫理性」や「共感」といった新たな価値軸にどう応えていくかが、対立的な議論ではなく新しい価値形成になっていくのだと思います。ラフに言うと”AかBかの対立やディベート的ないわゆる”論破”ではなく新しい意味を作るとみんなが得するできないかな”です。私の講義や演習では「意味経済(meaning economy)」という概念・アプローチを伝えています。勝敗を超えた文化的意義や社会的参加の可能性や、鞭という道具をめぐる制度的再設計を考えることで、競馬の未来像を考えることが、新しい社会を考えることにならないかなと思います。

まずは鞭の役割について改めて整理しよう

騎手もむやみやたらに鞭を使っているわけではありません。思い切りひっぱたくことも基本的にはなく、あくまでも加減しながら使用しています。鞭の役割は、合図を送ることと、走りをコントロールすることだそうです競走馬に伝わればいいので、無理にひっぱたく必要は全くないことは騎手自身がよく理解しています。病理学者のリディア・トンの解説は、「ガーディアン」によると、「馬の真皮──表皮の下にある組織の層、つまり皮膚の外層──は、人間よりもかなり厚い。たしかにこの厚い真皮は、ある程度外傷に対する保護力を持つ。だが、痛みから保護できるわけではない」と言っています。


そのためかどうかはわかりませんが、競走馬の性格に合わせながら、見せ鞭(馬の視界に入るように鞭を振り、鞭で馬を叩かない)、肩鞭(馬の肩に軽く鞭を入れる)、手鞭(鞭ではなく手でたたき合図を送る)、出鞭(スタートで出遅れたときや、前に行ってほしいとき)などの使い方があるそうです。


しかし今の社会は鞭の有効性だけではなく、鞭が象徴する意味そのもの感じていると思います。

伝統的には、鞭は馬を鼓舞するだけでなく、注意を促し、進路を正し、走行リズムを調整するなど、コミュニケーションツールとしても重要な役割を果たしてきた。競馬関係者の中には「鞭は罰ではなく合図だ」と主張する者も多い。しかし、現代社会においては、こうした説明では通用しなくなってきている。たとえ軽く叩いたとしても、動物に対する「強制」や「苦痛」の印象は払拭されない。


イギリスやオーストラリアでも鞭の使用回数に厳格な上限が設けられており、過度な使用は禁止されています。回数やタイミング、動作の強さに制約を加えています。しかし、問題はルールを守っているかどうかではなく、鞭という行為そのものが現代の価値観と差があるのかもしれないということです。

現代は、単なる「観客」ではない。SNSなどの普及で彼らは「倫理的観戦者」として、競技の内容だけでなくその背景や方法に対しても敏感に反応するようになっている。YouTubeなどには【鞭を使わずに完勝!!】や【ムチを全く入れずにゴールする・・・エグすぎる】 や「手綱だけで制した騎乗」などの動画もアップされています。それら以外もやはり、「抑制」や「信頼関係」、「身体の同期」が美徳として感じられることが多いように思います。競技そのものに新しい評価軸をもたらしていかもしれません。ススポーツは勝ち負けを競うものですが、どのように勝つか、どのような価値観に基づいて勝つかがよりいっそうもとめられ、それが感性だけではなく意味経済のようになっていくのかもしれません。


量的な成果やスピードによる価値評価ではなく、行為に込められた倫理性・共感性・文化的文脈にこそ価値を置く制度設計がでじたらいいなという気持ちです。


競馬をこの枠組みで再構築することで、勝敗にとどまらず、「どのように勝利を実現したのか」「その騎乗にどのような意味が込められていたのか」といった観点が評価しても興味深いのではと思います。たとえば、鞭を使わずに勝利した騎手は、技術的優秀さだけでなく、「倫理的勝者」としても評価されるしくみということです。


たとえば、「鞭使用インデックス」を導入し、レース中にリアルタイムで騎手ごとの使用回数を表示し、さらに、それをもとにオッズに補正を加える仕組みを作ることで、「勝つために叩いたのか、叩かずに信頼で導いたのか」といった判断がファンの手に委ねられる。いきなりはミリかもしれませんが、物語性と倫理性を可視化・共有化する制度ともいえます。こうした制度が整備されれば、「鞭を使わずに勝つ」という行為がひとつの社会的美徳として共有され、騎手の選択や戦略にも影響を与えるだろう。


もちろん、こうした制度変更にはリスクも伴います。「自由な戦術が奪われる」「騎手がポーズで鞭を使わないふりをする」「制度が複雑になりすぎてファンがついていけない」など、さまざまな反論が想定されるので、新たな分断をうんではもともこありません。でもこうしたリスクを認識しながらみなで制度を調整しながら。むしろ、それは制度設計に「感受性」と「変動性」を持たせる可能性を示していると思います。


鞭は単なる道具ではない。それは、制度と社会、力と倫理、制御と共感のはざまで揺れる象徴的なメディアかもしれません。鞭の使い方をどうするかという問いは、実のところ「私たちは競技に何を求めているのか」という深い問いに通じているかもしれません。


だからこそ、鞭を見直すことは、単に動物愛護の問題ではなく、制度と社会の象徴構造を再設計するプロジェクトになれが社会的意味も大きいです。


制度が“意味”に応答する構造常に持てると、私たちは初めて共感できる制度、社会的に納得できるルールを創り出すことができるのかもしれません。競馬という舞台の変化を考えることが、未来の制度設計のヒントを私たちに与えていると思います。(図1,2,3)

(図−1)実践・倫理学ー現代の問題を考えるために/児玉聡(著)・勁草書房

(図−2)現代日本人の動物観ー動物とのあやしげな関係/石田おさむ(著)・ビイング・ネット・プレス

(図−3)倫理学に答えはあるかーポスト・ヒューマニズムの視点から/ジェームズ・レイチェルズ(著)・世界思想社

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