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時評:御成敗式目と武家諸法度

2024.3.19

御成敗式目と武家諸法度多くの方が聞いたことのある言葉だとおもいます。
日本でも昔等多くの法律(ルール、社会の仕組み)が制定されてきました。
古代では、呪術的な風習や占い、裁判?お祓い?のような盟神探湯(くかたち)などのようなもので、善悪・是非・正邪が決められていたようです。

十七条憲法

真偽は定かでは有りませんが、604年に聖徳太子が十七条憲法が定められたと言われています。これは憲法という名前がついてはいますが、近代の憲法とは違い、官僚への道徳的な規範となっており、行政法としての役割であったと言われています。
また、第一条と第十七条で、「独断の排除」と「議論の重要性」について、触れられているのが特徴で、その「議論重視」の精神が、近代の十七条憲法道徳的な規範を示しています。
十七曰、夫事不可独断。必與衆宜論。少事是輕、不可必衆。唯逮論大事、若疑有失、故與衆相辨、辞則得理。
第十七条 そもそも事は独断で決めるべきではない。かならず、皆と一緒に議論すべきである。小さなことは軽いので、かならずしも皆と相談する必要はない。ただ大きな事を議論するに当たっては、あるいは過失がありはしないかと疑われる。それゆえに皆と互いに是非を検証し合えば、その命題が理にかなうであろう。(http://www.joukyouji.com/shoutoku.htmより)
まさしく今の時代の”対話”を言っているように感じます。

大宝律令

その後701年には、大宝律令)が完成しました。律は今日でいう刑法に相当するのも出そうで。令は行政組織や人民の税金や労務などに関するものだそうです。こちらも今の行政法にあたるものだそうです
社会に対して良くないことに対しての罰則と組織のあり方(人とお金・税金)は、規定しておかないといけなかったのでしょう。いつの時代も同じようです。

これによって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 – 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)など今の国の組織とも密接につながるの官僚機構を骨格おいた本中央集権体制がなりたちました。役所での文書には元号を使うことや印鑑を押すこと、所定の形式に従って作成された文書以外は受理しないなど、今の行政のの根幹となる手続きの形式に基づく文書主義が大宝律令により成り立ちました。
また地方の統治については、国・郡・里などの行政単位がきめられ、中央から派遣された国司には大きな権限がある一方、地方の豪族である郡司にも一定の権限が認められていたそうです。中央と地方の関係の基本もこの事できたと言っていいかもしれません

御成敗式目

1232年に、北条泰時が御成敗式目を定めました。所領をめぐる紛争が増加したため、その処理の一定の判断基準を設け、これを合理的に整理しようとし、武家社会での慣習や道徳を集めたものです。御家人同士や御家人と荘園領主との紛争のためのもので、解決のための判定基準を明らかにしたものです。武家で最初の体系的法典でした。
成敗とは、「処罰すること、 裁決すること、政治を行うこと。執政。 処置すること。取り計らうこと。」という意味です(https://dictionary.goo.ne.jp/word/)
式目とは、「ある集団や行事において守るべきこと。 きまり。 また、衆議によって決定した規則。中世、法規を箇条書にしたもの。」という意味です(https://kotobank.jp/word/)
全五十一か条からなり、神社・仏事・守護(軍事・警察権を中心に国内の治安・警備を担当した職)および地頭(荘園・公領の管理・治安維持に当たることを任務とした職)
の権限、所領の知行(武士に支給される領地)、刑事法、所領の譲与、訴訟手続などがきさいされています。道理を重んじていること、実用的なこと、平易であることが特徴とされています。さらに人民の統治に大変留意していることや公正な判断を促そうとしていおることも大きな特徴だそうです
御成敗式目は、全国に配布されに管理され、室町時代にも受け継がれました。また、江戸時代には寺子屋の教科書としても使われたそうです。

武家諸法度

武家諸法度は幕藩体制の総仕上げとして徳川家康が豊臣家を滅亡させた「大坂夏の陣(1615)からすぐに、武家諸法度の草案の検討をはじめたそうです。1615年の「一国一城令」をへて1916年7月には、13条からなる武家諸法度が発布されました。詳細は後述しますが、政治・道徳上の訓戒、治安維持の規定、儀礼上の規定などが具体的に細かく記述されています。この武家諸法度により幕府と諸大名は従属関係から公的な政治関係となりました。親分や師匠に使えてた子分や弟子ではなく、組織上の部下になったわけでそれを作ったのがこの法度(法令。特に、禁止のおきて。禁制。)になります。
武家諸法度(元和令 全13条)
1文武両道に励むこと
2酒におぼれ遊びに呆けてはならない
3法令に背いた者を匿ってはならない
4国に反逆人や殺害者がいたら,追い出さなくてはいけない
5領地に他国の者を住まわせてはならない
6居城の補修時は、必ず届け出をすること 新築することはかたく禁止する
7隣国で変化があれば江戸幕府に報告する義務がある
8幕府に許可のない婚姻は禁止する
9参勤交代時に、既定人数以上の随身は禁止する
10身分を弁えた服飾をすること
11身分の低い者の駕籠の使用を禁止する
12質素倹約に努めること 善き政を敷くこと

参勤交代

さらにその後、徳川家光もそれに倣い、武家諸法度を改定「寛永令」を発布し、”参勤交代”を明文化しました。江戸幕府は、中央政権ではなく各地にそれぞれの制度や軍事力を持つ大名のいる封建制社会でしたので、大名家の藩政に関して干渉することができませんでした。そのため地方の大名の弱体化を目的とし”参勤交代”をおこなわさせました。
大名達を1年おきに江戸にこさせ、移動に必要な旅費から江戸での滞在費まですべて各藩に出費させました。加えて、江戸の藩邸には、正室とその子を住まわせるようにしました。幕府の権威を強めて、大名家の狙ったのです。このようなけっこう大掛かりな無体を強いるこのようなルールを適用させた江戸幕府の力はかなり大きかったとも言えます。
変えられない大きな体制に対して、其の範囲のなかで個別のルールをつくり、権力者に都合の良いしくみをつくることもいつの時代でも見られることかもしれません。
一方で全国から、各地の権力者が集まったことにより、江戸の文化や地勢が展開していったことは結果的に大変興味深いことです。
さらに武家諸法度は以下の主な改訂がありました
元和元年(1615) 徳川秀忠(2代) 以心崇伝 家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に崇伝が起草した10ヶ条を付け加えたもの。 漢文体。各条に注釈。
寛永12年(1635) 徳川家光(3代)注釈の削除。 参勤交替の制度化。500石以上の大船建造禁止。
寛文3年(1663) 徳川家綱(4代) 大船建造禁止に荷船は除く。 キリスト教の禁止。
天和3年(1683) 徳川綱吉(5代) 旗本・御家人用の「諸士法度」を統合。ほとんど全条を改訂。 養子の制度を定める。殉死の禁止。
宝永7年(1710) 徳川家宣(6代) 和文体。 儒教の思想を反映。 賄賂で動くことへの戒め。
享保2年(1717) 徳川吉宗(8代)天和令(徳川綱吉制定)に戻す。
安政元年(1854) 徳川家定(13代)大船建造を申請により許可。

法律や仕組みを作り続けてきた私達

私達の普段の生活からははるか昔の様々なルールを見てきました。歴史の授業でしか使ったことのない言葉がたくさん出てきたかもしれません。どの時代もそのときどきにあった社会の包摂性を考えながら、法律や仕組みを作り続けてきたのです。
遠い過去のことではなく、培ってきた思考や仕組みの設計を「見ていくことは包摂型社会形成においても重要なことであるといおもいます。

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