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DIDI Newsletter(2024年3月26日 公開)

2024.3.26

2024.3.26

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今号は、約2年間にわたって社会包摂デザイン・イニシアティブ(DIDI)の特定プロジェクト教員、DIDI運営室・学術研究を担われた田中瑛先生のインタビューです。田中先生の研究、DIDIでの2年間についてお話をうかがいました。

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田中先生の研究について

現代社会におけるジャーナリズムの在り方について社会学的な視座から研究をしています。ジャーナリズムというと、新聞やテレビニュースのように、情報発信する人と、それを受け取る人がいるという印象を持たれると思います。いわゆるマスメディアとかマスコミと呼ばれるものですね。ただ、今の時代、インターネットの普及によって誰もが情報発信の担い手になりえるというように状況は複雑化しています。そして、誰もが情報発信できるようになったことで、隠れた事実をジャーナリズムが暴くというだけでなく、いろいろな声や意見が可視化されるようになったとも一般的には思われています。ですが実際のところ、誰もが声を上げられる時代だからこそ、その声が見えなくなってしまうこともあると私は考えています。

例えばSNSでは、共感しやすかったり分かりやすい投稿にはすごく「いいね」が付きますが、そうでない投稿はたとえ重要な内容であっても評価が小さくなりやすく、結果として見えにくいところに置かれてしまいます。このように、分かりにくいものが不可視化されるところに私は問題があると感じていて、それを「声なき声」と呼んで分析をしています。そのような、誰にも聞き入れられない、あるいは言葉にしたくても説明できないような問題を、ジャーナリズムはどのようにして可視化できるのか。例えば、障害のある人がきょうだいにいる「きょうだい児」と呼ばれる人や、あるいはヤングケアラーと呼ばれる人たちのように、自分自身の問題を適切に表明する手段を持ちにくい人が多くいます。そういう問題を「声なき声」として取り上げ、社会全体の課題として議論する場をメディアはどのようにして生み出させるのか。そういったことを研究しています。

もともとは、報道記者を目指していました。しかし、報道業界はさまざまな葛藤を抱えています。もちろん、ジャーナリズム精神に燃えて頑張っている人もいます。しかし、業界全体としてはより数字が取れるニーズ、つまり、より多くのオーディエンスの関心を引き立てるものの方が重視され、高く評価もされる構造があります。反対に、分かりにくいものごとは公共的な場所にはなかなか現れない。大学生のときにそれを感じ、現場の論理に基づいてキャリアを積んでいくのとは少し異なる方法で、業界の外に身を置いて研究をしてみようと思ったのがきっかけです。

DIDIの2年間における活動

一般的に社会学は、相互行為の中から生まれる秩序や常識、構造などを読み解くような、「分析する学問」だと言えます。そうした分析を通して、現場の実践者たちにとって有益な視点を提示しようというのが、私が研究をする動機です。しかし、いざ自分で研究から得られた知見を実践にまで接続していくとなると、正直に言えば戸惑いを覚えました。私自身、デザイナーでもなければ、デザインの研究者でもないので、それをデザインに繋げるにはどうしたらいいのかを、最初の半年ぐらいは逡巡していましたね。芸工での活動は、仮説を設定して検証するという既存の科学とは少し違うかたちで、手を動かしながら知識を析出していくものだと思います。学問の世界を相対化する視点を持った場所でもあるので、戸惑いつつも、そうしたことから得られる視点があるのではないかと思いながら活動をしていました。

一番印象に残っているのは「デザイン・シビック」の受講者と実施したメディア・ワークショップでしょうか。学生たちに、大学生活の中でジェンダーについて感じたモヤモヤを尋ね、それについて対話をしてみるというワークショップでした。このワークショップは、対話を進める上で重要なポイントを析出した上で、大掛かりな機材などを用意せずに、既存の環境メディアを使って、誰でもできるように工夫したものです。ポイントが三つありました。

一つ目は、プロのファシリテーターではなく、等身大の個人が行うワークショップだという点です。これは報道記者の専門職性の分析をしてきた経験に依拠しています。通常、報道記者は仕事で取材や聞き取りをする場合、中立で客観的な「無私」の立場から、情報を聞くことに徹しようと心がけます。しかし、博士論文では、職業人としてではなく「私」として相手に接さなければ、信頼関係を構築できないのではないかという問題提起をしていました。そこからヒントを得て、このワークショップでも、社会学者や大学教員という確かな答えを持っているとされる権威的な立場ではなく、生活の中で悩みを抱えて生きる20代の男性として疑問を投げかけ、呼びかけていきます。呼びかける側が自分自身を語ることで、呼びかけられる側も本音を開示する障壁が低くなる。そこから、相手に自分がどう思うのかを素直に書き込んでもらうような進行の工夫をしています。

二つ目に、参加者のみなさんには匿名で参加してもらいました。これは一般論ではなく自分の思いを開示してもらうための工夫なのですが、いわば「諸刃の剣」だと言えます。個人で責任を負わされることがなくなり、発言がしやすくなる分、誹謗中傷をするなどのリスクもあります。あくまでもクローズドな場面でのみ用いるべきで、慎重な配慮が求められます。もちろん、実名では言いにくいことには社会課題を考える上で重要な、だけど不可視化されている問題があるので、「制御された匿名性」のようなものが担保される対話の空間を生み出す工夫が必要なわけです。そうした条件付けを可能にするのがメディアの持つ論理だと言えます。

「LINEオープンチャット」などのメディアを用いながら対話のワークショップを行いました

そして三つ目は、ワークショップをやるにあたってのある種の開き直りです。そもそも私はデザインのプロではありませんし、メディアを用いて対話の場をデザインするということには、設計者の恣意性が含まれる。そうした権力性を内包していることにも自覚的である必要があります。さらに、対話の形は設計者のみならず参加者にも左右されます。そのため、対話の在り方を完成されたものとして提示することはそもそも不可能なんです。だからこそ、プロとして何か洗練された作品を完成させるのではなく、「素人としてDIYをする」という姿勢を大事にします。DIYというのは自分の欲望を満たすために素人が行うものです。だから、デザインのプロのような個性とかユニークさとかを売りにするのではなく、誰でも真似て、自分たちのニーズや考え方に基づいて修正を加えられるように、不完全な仕方で提案をしていく、という開き直りをしました。このDIYという考えに基づき、LINEやMiroといった既製のメディアを使う発想が生まれています。

ありがたいお言葉ですが、「仕組みをつくる」と言うのは少し躊躇してしまいます。人間の営みから切り離された「完全なものをつくる」という印象を与えてしまうように思うので、マニュアルを作るという時には一歩引いて見ることにしました。先に話したワークショップでは、例えば大学生に向けて行うときは自分の大学時代の経験を語りながら進めていくというふうに、その場その場に応じて異なる設計が必要となります。つまりどんな人が参加するかによってその都度設計を考えないといけないところがあるので、この仕組みをそのまま使えばうまくいくとはならないものです。対話が破綻して失敗する場合もあります。ですから、「誰かが設計したものを誰かが使っていく」という切り離しはせず、「参加者がみんなで対話の場をDIYするためのちょっとしたアイデア」くらいのものとして受け止められればいいのかなと思います。マニュアル化しえないことを、マニュアル化する、みたいなところでやってみた感じです。

リーフレット『表現と対話でつくる! 行政で使いやすいデザインワークショップ』

分析的な話になりますが、私たちは、職業的に集団で作られたテレビ番組よりも、素人が荒削りで作ってYouTubeなどに投稿しているコンテンツの方が、よりもっともらしく、本物らしいと感じられる時代を生きています。そうした意味で、DIYという考え方も多くの人に刺さるのかもしれません。

それと、これはワークショップの感想ですが、私自身、ワークショップのやり方をもう少し考え直してみる必要もあると感じています。匿名にして工夫したとしても、意見が分かれたり対立する重要な問題に対して距離を置き、当たり障りのない話に終始してしまう場合もあります。これは参加者となった九州大学の学生に限らず、おそらくは多くの若い人たちがデジタル時代を生き抜く上で備えた感性なのではないかと思います。意見が食い違ったときや立場が違ってしまったときに、どう落とし所を付けていくのかというところももっと考える必要があるように思います。こうした意味でも完成形ではないわけですね。

1年目は、対話のためのメディア環境を自分たちで生み出し、より民主主義的な相互理解の場をどのように生み出せるのかを考えることを目指しました。2年目は、自分たちで色々な人に取材をして、メッセージをどのように届けるのかを考えるべく、記事を作ってもらいました。特に1年目は、やはりデザインを専門にしている学生なので、色々なアイデアが出てきて驚きました。例えば、もともと炭鉱だった場所でフィールドワークをしている学生が、交換日記を使った聞き取り調査の方法を考え出しました。実際に現場に出向いて聞き取りをしていくのではなく、ただ連絡帳を回してもらう。そして、そこに書かれたものの方がよりリアルな印象を引き出せるのではないかというプレゼンテーションなどが、すごく印象に残っています。

2023年度の「デザイン・シビック」授業の様子

DIDIの活動を終えて、そして今後の研究について

批判的な分析と創造的なアプローチを往還する必要性があるということを強く再認識しました。メディアをめぐる批判的な研究では、社会的にデザインされたシステムや構造が私たちの自由や平等を制約してしまう側面があるという点に焦点が置かれることが多いです。例えば、排除アートなどはその典型例ではないでしょうか。もちろん、そうしたシステムをどのような合意形成のプロセスから作り変えるのかというポジティブな側面にも光は当たりますが、「何かをデザインする」と言う時に、それが設計者の恣意的な目的に人々を従属させ、コントロールするような、ある種の暴力に転じてしまう点を注視します。社会包摂デザインの目指すような共創の実践は、まさしくそうした懸念をどのように払拭するかを考えるもので、可能性を感じます。デザイン自体は良くも悪くも力を行使するものだということをふまえて、その力をうまく生かしながら、構造的に弱い立場に置かれている人々を包摂するという考え方の具体的なイメージが湧きました。

また、2年間の活動の中では特に、2023年10月に開催した社会包摂デザイン研究会 第5回「デモクラシー」が印象に残っています。古賀徹先生(芸術工学研究院教授)が、「デザインは中立を装ってしまう。あたかも中立であるかのように溶け込んでしまうところは注意深く見ていかないといけない」といった話をされていたと思います。これは報道を捉える上でも同様なのですが、デザインにおいても「自分たちは中立ではありえないこと」を出発点として内省する必要があって、それこそが社会包摂デザインがやろうとしていることなのではないだろうか、と思いました。プロのデザイナーがいて、その人が完璧な答えを出すという構図ではなく、違うバックグラウンドを持つ人たちが「わからない」ことに色々な視点から目を向けながら、デザインを作り変えていく。そうしたことを真剣に考える場だという印象も受けます。もちろん、DIDIでは一般的なデザインの前提についても色々と学びがありましたが、それ以上に、デザインを相対化するような「デザインの在り方」が多様な仕方で見られたのが印象深いです。

私が博士論文で書いた研究は基本的にジャーナリストという主体がどうあるべきか、どういうふうになっていくべきかといった部分に焦点を当てていました。その環境をどうつくるのかというところに焦点を当てていなかったわけではありませんが、実例も少なく、まだ掘り下げるべき課題が多い状況があります。DIDIに着任した当初、ジャーナリストはあくまでも取材をしたりメッセージを伝えたりする人であると思っていたので、「メディアを設計する人」とは分けて考えていました。DIDIでの経験を経た今、ジャーナリストというものをメディア空間のデザイナーとして捉えたときに、どういうことが可能になるのかが気になるので、この点を調査していきたいとも思っています。例えば、私が4月から勤務する実践女子大学の近くでは、NHKを退職した記者がファスト化する情報環境に抗って「SlowNews」という調査報道配信サービスを立ち上げるなど、報道機関を退職した記者がそれまでの経験で感じた違和感や限界を乗り越えるべく、自らメディアを設計する光景が見られます。そのようなメディア実践がどのような展開を迎えるかを調査し、学術的な視点から読み解くことが、自分に期待される役割なのではないかと思います。

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田中先生からのおすすめ本

『言語としてのニュー・ジャーナリズム』玉木 明 著(学芸林)

「ジャーナリズムや客観性について批判的に考える上で手がかりになる本です。ニュー・ジャーナリズムは『私』の主観から物事を書き起こすジャーナリズムの在り方で、日本でも沢木耕太郎さんなどを旗手として1980年代に広まりました。そもそもジャーナリズムには、公平で客観的な報道をすべきだという論調が強いわけですが、それでは上手く伝わらないことも多くあります。新聞記事の多くは『私はこう思う』というような一人称で書きません。玉木さんはこのような、一人称を避けて書かれた言葉を「無署名性言語」と呼んで批判します。それに対し、ニュー・ジャーナリズムは『私』の視点で思ったこと、考えたことを前面に押し出しながら書いていくという戦略を採るわけです。『私』が『私』として呼びかけることについて考えるときに重要なポイントが得られます。」(田中先生)

『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』 林 香里 著(新曜社)

「私の指導教員である林香里先生の著作でかなり重厚な本なのですが、私の研究関心に大きな影響を与えています。一緒くたにされがちなジャーナリズムとマスメディアがもともと異なる歴史を持つ言葉であるという出発点から議論が始まり、それ自体が面白いわけですが、そこから「マスメディアの周縁」にこそ「ジャーナリズムの核心」が宿るのではないかと問題提起をする点が非常に魅力的でした。つまり、マスメディアのシステムの中心にある政治や経済の記者が花形とされ、システムの端に追いやられているようなもの、例えば、ここで事例として分析される日本の新聞における家庭面などは、取るに足らないような「私」的な記事だと認識されやすい。しかし、実はこういうところにこそ、個人が抱え込んだままの問題を公共的なものとして可視化するという、ジャーナリズムの核心となるような実践が見られるのではないか。こうした気付きを得るきっかけになった本です。」(田中先生)

『ウェブ社会のゆくえ−−〈多孔化〉した現実のなかで』 鈴木 謙介 著 (NHK出版)

「デザインをやっている学生さんに向けて選びました。メディアを使ってその場所の意味を書き換えていこうという提案がすごく面白く、重要です。例えば、シビックプライドという地域のプライドになるようなものを、メディアを使って作ることに着目して分析するなど、場をデザインするときに面白い視点を提供してくれる本だと思います。」(田中先生)

<プロフィール>

田中 瑛(たなか あきら)

[2022年2月〜2022年3月]
九州大学大学院芸術工学研究院 学術研究員

[2022年4月〜2024年3月]
九州大学大学院芸術工学研究院 未来共生デザイン部門 助教

[2024年4月〜]
実践女子大学人間社会学部社会デザイン学科 専任講師

博士(社会情報学・東京大学)。専門はメディア・ジャーナリズム研究。SNS時代のメディア・ジャーナリズムにおける「声」の問題や「真正性」の構造を研究してきた。単著に『〈声なき声〉のジャーナリズム—マイノリティ意見をいかに掬い上げるか』(2024年、慶應義塾大学出版会)。共著に『AIから読み解く社会—権力化する最新技術』(2023年、東京大学出版会)、『東京オリンピックはどう観られたか』(2024年、ミネルヴァ書房)など。

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