民主的であること。民主主義

大正デモクラシーという言葉は多くの人がご存知だと思います。教科書にもたびたび出てきており、語感などからも、耳や頭に残りやすい言葉です。デモクラシーとは「民主的であること。民主主義。」を意味しますが、大正デモクラシーとは、日本で1910年代から1920年代のおおよそ大正年間にかけて起きた様々な、社会・文化・政治の活動の自由な運動、風潮、思潮を総称するもので、その多くが現在の日本の民主主義の基盤を作ったと言われています。信夫清三郎の著作『大正デモクラシー史』により、昭和期に名付けられました。つまり歴史的な位置づけとして後世に名付けられており、それだけ稀有な期間であったと言えます。もちろん、その主義や思想に関する賛否自体は様々あり、どちらがいいかは触れませんが、社会包摂を考えるための重要な期間であることは間違いない事実だと思います。

信夫清三郎(1978)『大正デモクラシー史』全3巻、日本評論社

米騒動

米騒動は、米の高騰に耐えきれなくなった民衆による一揆的な運動のように言われることが多く、日本全国に拡大して大きな暴動になったというぐらいの内容は伝えられていますが、あまり深い文脈で説明されることはありません。「米騒動」は、後述する普通選挙運動や労働運動などの社会運動を大きく転回させ、近代の市民の諸権利の獲得をもたらす大きな契機となりました。いわば、市民の生活要求から生じた運動が社会的に無視できない力を持つことを世に知らしめたことが、大正デモクラシーの大きな進展のきっかけになったと言えます。

この時代に、普通選挙制度の実現、言論などの自由、自由な教育や大学の自治、女性や部落の差別からの解放、労働者の権利などを求めて、様々な自主的集団が自治や権利をめぐる数多くの運動を展開していきました。

これらの運動は、現代の社会包摂デザインにも引き継がれている問題意識の発端であり、大正の時点で改善された事柄もあれば、今なお令和の時代にあっても解決されていない根本的な問題もあるかもしれません。

そこで、当時のいくつかの運動を見ていくことで、今の課題、これからの課題を考えるきっかけにしてみたいと思います。

普通選挙運動

1925年(大正14年)5月5日に満25歳以上の男子に選挙権が与えられ、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で初めての「普通選挙」が行われました。しかし、それまでは選挙権を得るのに一定額の納税が必要でした。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙の選挙権資格は「満25歳以上、直接国税15円以上を納める男子」(人口比率1.1%)とされ、1900年(明治33年)の衆議院議員選挙法改正では「直接国税10円以上」(人口比率2.2%)、1919年(大正8年)には「直接国税3円以上」(人口比率5.5%)にそれぞれ納税額の条件は引き下げられたものの、納税が必要な点は変わりませんでした。

1925年(大正14年)には「満25歳以上のすべての男子」(人口比率20.0%)となりましたが、依然として女性は参政権を得ていませんでした。太平洋戦争の終戦後の1945年(昭和20年)12月に、ようやく、満20歳以上のすべての国民(人口比率48.7%) が選挙権を得ることとなりました。

その後、2016年(平成28年)に、成人年齢の引き下げに伴い、満18歳以上のすべての国民(人口比率83.3%)が有権者となりました。

なぜ選挙権範囲があったか。

では、なぜ年齢・性別・納税額で選挙権範囲を決めていたのでしょうか。

その決定に関する明確な根拠資料はないそうなのですが、「義務であった兵役」と「治産の能力」などから、なんとなく25歳の以上の男であれば学校を卒業して、しばらく経ち、納税も兵役も行っているからだと言われています。(大日本帝国憲法では満17歳から満40歳までの男子に兵役義務が課せられ、満20歳から3年間兵役に服するものとされていました。)

ただし、女性や一定以下の納税者の参政権を認めないことが正当化される背景として、単に兵役の問題ではなく、社会に性別の差別意識や階層意識が根差していたことは間違いないと思います。

米騒動や第一次世界大戦の終結を契機として、地位、納税、教育、信仰、人種、性別などによって参政権を制限しない方向性が提唱され始めました。このころになって、成年の男女に等しく選挙権を認める動きがようやく始まりました。

女性運動

また、そのころ、女性の間にも、女性たちを従属的な立場におく社会から解放し、地位の向上を図る運動が起こりました。1911(明治44)年には、平塚らいてうらが雑誌『青鞜』を発刊し、自由恋愛や自由結婚などの議論が始まりましたが、その議論自体が日本の伝統に反するという誹謗もあったそうです。
しかし、こうした不利な状況で啓蒙運動を続けた結果、具体的な婦人参政権運動もようやく行われるようになり、1922(大正11)年には治安警察法第5条が改正され、女性の政治演説会への参加がようやく認められました。女性の演説会への参加が認められなかった論理的な理由も、はっきりしていません。兵役を後付け的に根拠とする説明もあったそうですが、結局は法をつくる官僚意識や世論の風潮といった男性側の既得権益意識のようなものが、女性の政治参加を阻んできた要因と言えるかもしれません。

堀場清子編(1991)『『青鞜』女性解放論集』岩波書店

農民運動

農民運動と呼ばれる運動も、このころに起こりました。農民自らが、経済的、社会的地位の改善をめざして小作料の減免や耕作権(耕作者がその耕作地を耕作する権利)を求める運動です。おおむね、地主と小作人の関係や構造の改善を図るものだと捉えることができるでしょう。地主に小作料を払って農地を借りていながら、耕作権を認められていなかった農民が、地主に対して小作料の減免などの改善を求めました。様々な改善も見られましたが、地主と小作人を不公平な関係に位置付ける構造自体は、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に農地改革が行われるまで改善されませんでした。

工場法

明治の終わりの1911年(明治44年)に、労働者を保護するための工場法という法律が作られました。それは、工場での労働者の就業制限と労働災害補償に相当する補助制度でしたが、労働者すべてが対象ではなく、15歳以下の年少者と女性労働者だけを対象にしたものでした。というのも、労働者の権利を保護・保障するという考え方ではなく、産業振興や国防における資源として「労働力」を如何に確保し、管理するかというスタンスの思考で定められた法だったからです。しかも、制限した内容も「12歳未満就労不可」、「15歳未満は12時間を超える労働不可・深夜就労禁止」とされており、それ以前にどのような労働環境だったのかを考えると恐ろしい限りです。そうした中で、労働者の権利獲得をより強く主張していく発端となった労働運動が、大正時代にようやく始まっていきます。当初は労使協調路線であったそうですが、恐慌で労働者の生活が苦しくなったこともあり、労使闘争の流れも生み出すことになりました。しかし、16歳以上の男子の就業時間が規制されるようになるには、1939年(昭和14年)に発令された工場就業時間制限令を待たなければなりませんでした。

部落解放運動

明治政府が1871(明治4)年に太政官布告を発し、江戸時代に定められた士農工商の身分制度とともに、そこから排除されていた「えた・非人」という被差別的な身分が制度的には廃止されました。しかし、この身分だった人々が暮らす地域、いわゆる「被差別部落」に対する差別はその後も続きました。

1922(大正11)年になると全国水平社が結成され、それを機に差別撤廃を求める水平社運動が始まりました。

第二次世界大戦の終結後、ようやく差別解消は進んできたかに見えましたが、今なお連綿と差別意識や差別行為が続いている実態もあります。2022年には、西日本新聞社で「記者28歳「私は部落から逃げてきた」」という記事の連載があり、大きな反響を呼びました。

ポツダム宣言

終戦時に日本が受諾したポツダム宣言の第10条には、

「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべき」

と記載されています。これを受け、本格的な民主主義(デモクラシー)は戦後に進んでいくことになりますが、このような様々な活動が生まれた大正デモクラシーは、戦後の日本の民主主義をつくりあげるために大きな意味を持った時期や運動であったと言われています。石橋湛山は『大正時代の真評価』において、大正時代を「デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期」としています。

現代の社会包摂デザインを考える上で、大正デモクラシーは大変参考になる事柄です。現在も問題になっている様々な事柄が、大正期に解決に向けた姿勢が生まれているにもかかわらず、なかなか解決していきませんでした。歴史的な事実だけではなく、なぜそのようなルールや法律が生まれたのか、そしてなぜ変わらなかったのか、変えられなかったのか、あるいは変わったのか。歴史的な出来事として捉えるのではなく、それらを読み解いていくことが現代の社会包摂の問題を考えるヒントにもなると思います。


【リーガル・デザイン・ディクショナリー】

ポツダム宣言:
第二次世界大戦における連合国(米国、英国、中国)が日本に対して発した13箇条から成る降伏要求で、1945年8月14日に日本が受諾した後、9月2日に調印、即時発効されました。

デモクラシー:
大正デモクラシーの主導者の一人である吉野作蔵は英語の「democracy」を「民主主義」ではなく「民本主義」と訳すことで、天皇を君主としつつも、民衆の福利や意向により政治を行う立憲君主制を構想しました。

シティズンシップ(市民権):
トマス・マーシャルは、共同体のメンバーとしての地位や身分として定義し、イギリス社会では18世紀に市民的権利、19世紀に政治的権利、20世紀に社会的権利がそれぞれ獲得されたと論じています。大正デモクラシーはまさにシティズンシップの獲得をめぐる闘争であり、グローバル化が進む昨今では、国民国家を前提とせずにシティズンシップを検討し直す必要性も指摘されています。

ポピュリズム:
デモクラシーの理念である「人民の人民による人民のための政治」を突き詰めた時に、大衆的支持を集める指導者による運動(ポピュリズム)に結び付くことがあります。ポピュリズム自体は必ずしも善悪で論じることができるものではありませんが、例えば、当時としては先進的な民主主義的理念を掲げたワイマール憲法の下、既成政治への不信と普通選挙から誕生したナチス・ドイツのように、「人民」の範囲から多様な人々を排除する反動的な運動を引き起こすこともあり、不寛容や差別の観点から問題とされています。

二・二六事件:
1936年2月26日に日本陸軍の青年将校が農村の窮状を訴え、政党政治の打倒を掲げて起こした軍事クーデター未遂です。特権階級が深刻な構造的な格差や貧困を放置し、議会制民主主義の説得力が失墜した結果として生じた暴力事件として教訓にすべき出来事だと言えます。

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