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学校の検査 【横からすいません 道草版】

2023.2.16

制服の標準化

直方市で2023年(令和5年)2月23日(木、祝)に開催される「第25回のおがた男女共同参画フォーラム」に、社会包摂デザイン・イニシアティブも展示協力をします。
直方市では令和5年度4月から、市内すべての中学校で、新しいブレザータイプの制服(標準服)が導入されます。フォーラムの展示型イベントの中で、その制服も展示されます。その関連で、社会包摂デザイン・イニシアティブがこれまで実施してきた各種「ジェンダー展」の一部を、協力で展示します。

制服に関しては、ようやく多くのところで話題になってきて、「男女を決めつける制服は、やめよう」という動きになってきています。男女問わずスラックスかスカートを選択でるようになってきているのが最近の流れです。
自由な選択肢を提供する一方で、制服そのものを無くしてしまおうという議論には、なかなかなりません。

校則見直し 校則検査

福岡市立の中学校では、ようやくブラック校則の見直しが進み出しました。
https://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20230201/5010019081.html

市内の中学校で “男女別の制服規定”・“アンダーウェア用Tシャツの決まった色の指定”・“頭髪についてツーブロックやポニーテールの禁止” など、5つの校則がなくなると発表されました。“眉毛を整えること”・“靴下の色の指定” などについても、見直しが進められているそうです。
ここでしっかり考えておきたいことは、ただブラック校則をやめようではなく、それプラス「なぜその校則が管理され維持され続けていたか?」です。そこの問題構造をしっかり記述しておくことが重要と思います。おかしいと思いながらも、あるいはおかしいとも思わず “誰かが中学生の下着の色をチェックし続けてきた構造” を、改めて考えてみること。それが、次の「仕組みのデザイン」につながると思います。

学校での検査

学校が各自で設ける校則以外にも、学校には法律に基づいて行われる様々な検査があります。

今では「色覚多様性」と呼ばれているものが、昔は「色覚異常」や「色盲」と言われていました。色に惑わされない2色型色覚の人は狩りに有利だったという考え方もあるようです。私たち人間の祖先が狩猟を中心とした集団生活をしていた頃は、リーダーシップを発揮し統率することが得意な人、槍や石を遠くまで投げられる人、足が速い人、獲物を運ぶ腕力が強い人、そして色に惑わされず獲物の輪郭や動きを見つけやすい2色型色覚の人などで役割分担をしていたのではないかという仮説もあります。そのため現代も5%とそこそこ大きな割合で、特に男性に2色型色覚が多い理由であるというものです。

2色型色覚に限らず、遺伝的に残っている“不利”や“病気”と言われるものは他にもたくさんあります。

生物的には劣勢や障害・病気ではない特性を、劣勢や障害・病気として扱ってしまっているのは、私達の社会の仕組みかもしれません。優か劣か、ではなく、生物としての我々を自ら理解し、社会全体の多様性、それはいろいろあるだけではなく連続的な、分断されていない柔らかな流体として捉えていかねばならないのかもしれません。人間が狩猟生活を行っていたのは600万年間と言われています。印刷技術が普及し印刷に色が使われ、色が記号的に使われるようになった現代生活は、ごく最近せいぜい500年程度の話です。

今はごくごく一部ですが、2色型色覚では就けない仕事、また、ハンディのある仕事があるとも言われていますが、これもはっきりしていないこともあります。そうした職業制限が色覚検査復活の根拠の一つと言われていますが、本当に職務上で差し障りがあるのかどうかもはっきりしていないところもあるそうです。また、色覚が職務上で差し支える場合があるとしても、それを本人だけの責任にしたり、職業選択の自由の幅をせばめる壁を作ったりしていいのかどうか、社会の責任も大きくあろうかと思います。当事者も非当事者も科学的に正しく事実を知り、そして2色型色覚の人も3色型色覚の人もあらゆる人が住みやすいような世の中を作ることが、より重要だと考えます。600万年間も使われてきた生物の機能が、わずか500年ほどの人間生活の変化に合っていないというのは、アタリマエのことですから。

昔「色盲検査」と呼ばれていた検査(複数のドットで構成された面の中に数字が浮かび上がる 石原式色覚検査と言われたもの)は、以前は小学校4年生で行われていましたが、2004年頃からは希望者のみの検査となりました。しかし、自分の色覚を理解しておくことも重要なことなので、また2015年頃から検査が再開されているようです。

学校保健安全法

 学校における児童生徒等の健康診断は、学校保健安全法で定められています。

○ 学校教育の円滑な実施とその成果の確保に資することを目的とし、子供の健康の保持増進を図るために実施するもの。
○ 学校生活を送るに当たり支障があるかどうかについて疾病をスクリーニングし、健康状態を把握するという役割と、学校における健康課題を明らかにして健康教育に役立てるもの。

という、大きく二つの役割です。
児童生徒等の健康診断における検査項目(学校保健安全法施行規則第6条)は、
1 身長及び体重
2 栄養状態
3 脊柱及び胸郭の疾病及び異常の有無並びに四肢の状態
4 視力及び聴力
5 眼の疾病及び異常の有無
6 耳鼻咽頭疾患及び皮膚疾患の有無 
7 歯及び口腔の疾病及び異常の有無 
8 結核の有無
9 心臓の疾病及び異常の有無
10 尿
11 その他の疾病及び異常の有無
となっています。検査として、具体的な値や状態を確認する項目と、異常の有無をみる項目があります。科学の常識も変わりますので、制度的な検査だけではなく、検査でみようとしている“異常”とは何かを考えておくことがリーガルデザインにつながるような気がします。異常とみるための閾値の根拠は統計的なものか? 経験的なものか? 医学的なものか? 行政的なものか? 法的なものか? を考えることが重要です。そしてその根拠の思想も併せて考えることが重要ではないかと思います。

検査の目的

なぜなら、方法と目的の関係は、あやふやだからです。方法は同じでも目的が変わっていくことも多々あります。健康診断は、もともとは軍国主義時代の徴兵のための検査から始まったそうです。足が短いと重心が低く安定するから兵士として有利である、だから座高を測っていた、という話もあります。本当かどうかよくわかりませんが、座高の値によって徴兵されないケースがあったのか、そんなことはなかったと思いますので、座高をはかる意味自体もあったのかどうかわかりません。戦後は、人間工学的な人体寸法の統計データ獲得や健康管理の目的に変わっていきました。

「寄生虫卵検査」も無くなりましたが、始まった当時である1958年は、寄生虫発見率は約3割でした。時代は流れ、水洗トイレの普及などにより、寄生虫発見率は1%未満にまで低下しました。5%以下になって40年、1%以下になって20年経って、ようやく検査は廃止されました。「見直す」という仕組みが無いと、一度決めたことを変えづらいのも事実です。

人間の状態や学校・社会の環境が時代の流れとともに変わっていく一方で、制度的方法は残っていきます。制度の背景にある思想を理解していないと、「誰も意味がわからないが、ずっとやっているからやっている」という、ありがちなお役所仕事となってしまいます。

更に、検査や制度は、ソフト的なものとしてだけ捉えられますが、健康診断をどこで誰がどんなふうにやるか、といったハード的なことも大変重要です。小学校で問題になっていることがたくさんあります。健康診断のとき裸にさせたり、外から見える教室環境であったり、診断者が威圧的であったりと、広い意味の環境デザインが十分でありません。健康診断のとき裸になるかどうか、こういった議論の際、「裸になるか」、「裸にならずに背骨の変形を見逃すか」といったおかしなトレードオフの構造に持っていってしまう場合もあります。

二項対立ではない。どちらも解決。
「上半身裸にさせる学校健診、京都市は見直さず 「正確な診察をすることが重要」」という見出しの記事がありました。
(京都新聞2022年12月2日 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/932457
「半身裸にさせる学校健診の見直しを求める声が各地で上がる中、京都市教育委員会は、裸で実施する従来方針を維持する考えを市議会代表質問の答弁で表明した。」と記されています。
理由は「学校健診で脊柱側弯症が見逃され訴訟になっている事例がある。正確な診察を実施することが重要」だからだそうです。着衣をしていることが理由で見逃したのか、脱衣であれば100%発見できるのか、そんなことはないと思います。
子どもたちは恥ずかしいし、過去にあった医師による健康診断時の盗撮事件は親も子も不安で仕方ないのです。
「子どもが嫌がる裸にならずに、不安に思わせず、適切な診断を行う(方法を皆で考える)。」が答えだと思うのですが、二者択一、二項対立的な論破合戦のようなやり取りでない、どちらも解決するという、”厄介な問題”を解決するデザインの方法を社会化していくことも重要と思います。

社会包摂のセンス

検査というと特に、あまり考えることなく、問題意識なく、「とにかく受けなければいけない、国からのお達しだから」となります。もちろん目的を持った正しいことのほうが多いのですが、強い枠組みで強制されることが多い検査だからこそ、一義的でないか、目的と方法が合っているか、他の方法はないか、権威に遠慮している人はいないか、そんなふうに一つずつ、いちいち感じられる心構えが社会包摂デザインのセンスなのかもしれません。
医学と社会学に基づいた新しい健康診断をデザインするというような気持ちを持てるかどうか、ということだと思います。都度都度、経緯や理屈を考えて、ふりかえり、それを記録し記憶し、道程は長いですが、たぶん大変ではない。ゆっくりじっくり、いつも考え続け、少しずつ行動していくことが、新しい仕組みづくりであり社会包摂デザインかな?と思います。道のりは長いですけど、多難ではないと感じています。

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